ロマンロランとベートーベン
ロマンロランは音楽にも大変詳しく、音楽研究家でもあります。
子供のとき母親からピアノを習い、ベートーベンに精通し、学校で音楽の授業をし、
ベートーベンを元に「ジャン クリストフ」を書いています。
フランス人ですが、大変国際的に物を見ており、フランスすべての人ではありません。
ロシア、インドにも眼を向け、日本人との手紙のやりとりもあります。
ですからフランス愛国者からは、疎んじられるところもあったようです。
ベートーベンは1770年12月17日 生まれ、1827年3月26日に56歳で永眠しています。
耳鳴り、難聴、下痢に悩まされ、晩年手術を受けたというベートーベンの出した手紙があります。
腹水がたまりそれを抜いていたようです。
死後解剖の結果も耳に関して医師の記録がありロマンロランの書に出ていますが、
当時の医療事情の不十分さのためか、翻訳が悪いのか良くわかりません。
最近の研究から遺骨毛髪の分析結果から ワインに含まれた鉛による中毒が病因らしいです。
ベートーベンは真面目な人で、現在よくみられる ポートトレート は大変こわい顔で音楽室が怖かったと娘も言っていますが、
若い頃は素敵でした。芸人アンジャッシュの片割れに似ているのもあります。
女性にもてて女性友達も多かったそうですがよくわかります。
ピアノの教え方も丁寧で優しいところもありましたが、怒ることもあり、
病弱で具合の悪い女性に2時間もそして毎日教えるというしつこい面もあったようです。
ロマンロランの書には作曲の過程(スケッチ帳)もありいかに苦労して作曲を続けたか出ています。
モーツアルトの書き直しのない譜面とは大違いです。
芸術家は、モーツアルトを含め画家も音楽家も
そしてテレビで放映した 「水木 しげる」の「げげげの女房」ではないけれど
作家、歌人、俳人 漫画家も貧乏、病気につきまとわれていました。
大公からもらえるはずの年金もナポレオンが侵攻してきたためにたち切れになったりしています。
でも晩年は自分で言っているほど貧乏でもなかったいう話もあります。
株の証券が出てきたという話もありました。でもこれも可愛い甥のためだったようです。
家族への思いも強かったのですね。でもその甥はおじさんの偉大さがわからなかったようです。
そしてベートーベンの 宛名のない「不滅の恋人への手紙」というのがありますが、
死後引き出しから発見された手紙です。
結局相手が誰なのか、断定は出来ないとロマン ロランは言っています。
テレーゼ ブルンスヴィックはハンガリー人で孫が住んでいて手紙日記を所有していました。
ハンガリーの女性研究家と 資料のやり取りをロマン ロランはしていますが、
重要な手紙を紛失しているか、故意に処分したのか、肝心のところがわからないようです。
テレーゼ ブルンスヴィックですが、彼女はハンガリーの伯爵令嬢で、独身で妹の子供の面倒をみたり、
ハンガリーで幼稚園を作ったりしています。
テレーゼ ブルンスヴィックは妹が二人、弟が一人いて、ベートーベンにピアノを習い
経過から「不滅の恋人」の可能性があるものの、日記手紙も肝心なところがなくわかりません。
大事だからこそ残さなかったとも考えられます。
テレーゼ ブルンスヴィックは苦労し最後は家族の没落もありました。
家族のために働き、でも大事にされていなかったようです。
鉛筆書きの、7月6日月曜日 朝、夜、7月7日と3通の手紙です。
鉛筆書きのところを思うと下書きだったかなというところですが、旅先のようでもあります。
湯治に行ったようです。曜日と日付から何年に書かれたか推測していています。
1812年の可能性があるそうです。
駅馬車で難儀したという文がありますが、確かにエステルハージ公がその頃馬車で同じ道を旅したそうです。
そして、この手紙と一緒に写真が2枚あり、1枚はテレーゼ ブルンスヴィック、
裏にテレーゼの言葉が書いてあります。
「稀な天才 偉大な芸術家 正しい人へ」と献辞が添えられています。
もう1枚はジュリエッタ グイッチャルディ というひとです。ピアノソナタ
「月光」の生まれた事情に関係しているのは事実のようですが、手紙のあて先ではなさそうです。
テレーゼ ブルンスヴィックとベートーベンの感情の時期のずれというというのもあるようで、
またテレーゼの妹ヨゼフィーヌとベートーベンが仲良かったという、話もありました。
ロマン ロランは断定を避けています。
でも親しい感情、尊敬の念は持ち続けていたようです。
同じ精神原理にみちびかれていた、とロマン ロランは述べています。
永遠のなぞにしておいたほうが良い事もありますね。